最終講義 「ゲノムの壁-混沌・仮説・挑戦-」

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講師 本庶 佑 教授
日時 2005年3月16日(水)
会場 京都大学医学部 芝蘭会館 稲盛ホール

はじめに

 生物は、情報の集合体ととらえることができます。ところが、情報担体としての生物が持つ情報量は、ヒトの場合、遺伝子の数でわずか2万5千程度であります。ここに、ゲノム自体が持っている物理的制約があります。生物はこの制約をいかに乗り越え、ダイナミックで高度な機能を持ち続けることができるのか。これが、タイトル「ゲノムの壁」に掲げた問題です。また、副題の「混沌・仮説・挑戦」は、生命の神秘性を持った「混沌」の中で「仮説」を立て、それを検証するという「挑戦」の道のりとして、私の研究の流れをたどりたいということです。

仮説をたてる楽しみ

 私は、1960年に京都大学に入学しました。医学部2回生のときに読んだ、柴谷篤弘先生の『生物学の革命』という本に強い感銘を受けました。この本には、DNAの塩基配列を決定すれば病気の原因がわかり、分子外科手術によって悪い遺伝子を治療すればよいということが書いてあり、今から考えても非常な卓見でありました。当時、私の父親が山口大学の医学部にいたのですが、柴谷先生はそこの教養部の教授をしておられたので、早速訪ねてきいろいろお話を伺いました。先生が説明されたことは、難解で全く理解できませんでしたが、唯一理解できたことが、「京都大学には早石さんが帰るから、そこに行って勉強したらよろしい」、ということでした。そこで、さっそく早石修先生が主宰されている「医化学教室」に出入りするようになりました。早石先生は、一週間に一度お会いできるかどうかでしたので、実際には、助教授の西塚泰美先生に手取り足取り教えていただきました。  大学院時代の最初の仕事は、ジフテリア毒素の作用機構でした。この時期に、私の研究のやり方が、ある程度確立したといえます。まず、最初の大きな問題は、最も重要なことですが、何をテーマにしたらいいのかということです。5月のある日図書室で勉強していますと、非常におもしろい論文が見つかりました。それは、“Effect of diphtheria toxin on protein synthesis: Inactivation of one of the transfer factors" という、John Collierという人の論文で、ジフテリア毒素はNADをcofactorとし、ペプチド鎖を伸長するTransferase Ⅱを標的としてタンパク質の合成を抑えるという内容でした。この論文の不思議な点は、酸化還元助酵素のNADが、タンパク質の生合成を阻害するというところです。ジフテリア毒素、NAD、タンパク質合成の三つのキー要素の中で、ジフテリア毒素以外の二つはなじみが深いものでした。NADについては、西塚先生がトリプトファンからNADの生合成経路を発見されていました。  しばらく考えていますと、ジフテリア毒素はどうも酵素ではないかと思えるようになりました。しかし、当時、毒素は標的分子に直接結合して不活化すると考えられていましたので、周囲の人は私の仮説にあまり賛成しませんでした。しかし、それでもいくつか実験をやり仮説を検証してみました。その結果、毒素を希釈しても不活化がかなり起こること、NADのADPリボース部分がEF-Ⅱというタンパク質合成因子に結合すること、ジフテリア毒素がそれを触媒していること、などを証明することができました。  私はこのとき、前日に仮説を立て、実験をして検証し、その夜家へ帰りまた次の仮説を立てるということを、二、三ヶ月繰り返しました。そして、それが非常に楽しいことに気がつき、研究をやる醍醐味だと思いました。

青雲の志

 そのうちに大学院も終わり、1971年、アメリカに留学しました。当時は高等生物の遺伝子制御が何も分かっていない状況でしたので、唯一、高等生物の遺伝子を純品として扱っていた、ボルチモアのカーネギー研究所のドナルド・ブラウン博士のもとに参りました。ブラウン先生は、カエルのリボソームRNA遺伝子を、GC含量の高さにより塩化セシウム法で単離し、その構造と発現の研究を進められていました。その結果、構造配列とスペーサーが1000回くらい繰り返していることが明らかになっていました。  ある時、ブラウン先生は、このリボソームRNA遺伝子の構造が、可変部と定常部という免疫グロブリン(抗体)の遺伝子構造の一つのアナログではないかと、真剣に話されました。抗体分子はL鎖・H鎖の二本ずつから成り、N末端側の可変部は多様な構造をしており多様な抗原を認識し、C末端側の定常部は一定の構造をしています。すなわち、ブラウン先生はVCのセットがたくさん存在するという、germline学説を唱えられたのです。私はこれに非常に触発されて、「それをどうやったら検証できるのか」と先生に尋ねますと、「この仮説によればC遺伝子の数は多いはずなので、その数を測定すればよい」と答えられ、NIHのフィリップ・レーダー博士を紹介してくれました。そこで、私はレーダー博士のもとに移りました。  レーダー先生は、当時最新の技術である、RNAからcDNAを合成し、溶液中でのハイブリダイゼーションの会合速度を測定することによって、ゲノム中の遺伝子のコピー数を数えていました。そこで、MOPC41というミエローマ細胞のL鎖のmRNAから合成したcDNAを用いてC遺伝子の数を調べたところ、1つか2つしかないことがわかりました。  C遺伝子はおそらく1個か2個であるということで、ブラウン先生の仮説が間違いだということを証明してしまい、少し皮肉な結果でした。一方、V遺伝子の方は、アミノ酸配列の研究から、少なくとも数十はあると考えられていました。そうすると、V領域とC領域が何らかの連結をおこなっていることになり、DNAかRNAの再構成という、普通には起こらないことが起こっているに違いないと確信したところで、1974年、日本に帰国しました。

混沌からの挑戦

 何をやるかということが、研究では常に重要です。私は帰国した時、二つの可能性を考えました。まず、大学院時代におこなった、毒素によるタンパク質のADPリボシル化と細胞活性の制御の問題は、それなりの評価を受けて、また重要性も高いので、これをもう一度やるべきだというアドバイスをだいぶ頂きました。もう一つは、抗体遺伝子の再構成の問題ですが、これは競争が激しいし、ものになるかどうかは分からないから、やらないほうがいいというアドバイスでした。しかし、私はどうせ一生をかけるとしたら、リスクが高くても自分がやりたいことをやるべきだと考えました。  アメリカでは、L鎖を使った研究が非常に先鋭的に進んでいました。私は、同じ材料を使ったのでは勝ち目がないと考え、H鎖を使う研究へ進みました。その中で、クラススイッチという現象があることを知りました。抗体は、H鎖の定常部の違いによって、8種類のクラスに分類されています。Bリンパ球はまずIgMという抗体分子を細胞表面に発現しますが、これが抗原を認識すると細胞内に刺激が入り、IgG、IgE、IgAなどの異なるクラスの抗体を産生するように変化するというのがクラススイッチです。V領域とC領域がH鎖の1本のポリペプチドの上にあるにもかかわらず、C領域のみが変化するということで、当時の「1遺伝子1ポリペプチド説」では説明できないため、クラススイッチは非常に不思議な現象でした。  当時は、サザン・ハイブリダイゼーションやクローニングはありませんでした。C遺伝子の数の測定は、mRNAからcDNAを合成して、溶液中でのハイブリダイゼーションで会合速度を解析することでおこないました。MOPC41ミエローマ細胞からDNAを単離し、Cg1領域の数を調べると、半分になっていることが分かりました。こういうことを、Cg1だけではなくてさまざまなクラスについてやりますと、減少したりしなかったりすることがわかりました。  1977年初頭の冬でしたが、学生実習の監督をしながら、これを計算していました。それをまた帰りの電車の中で、なぜミエローマの種類によってC領域の数が変わるのだろうかと考えていました。すると、ふと、C遺伝子が一定の順番に並んでいるとすると、あるC遺伝子が発現するために、その上流のC遺伝子が要らなくなり、発現する遺伝子となくなる遺伝子の相関を説明することができるという、欠失の仮説を思いついたのです。そして電車から降りて、家に帰ってこれを順番に並べて、翌朝、大学に行ってすべてのデータをひっくり返して、これに合うかどうかを確認しますと、基本的には合っていました。しかし、いくつか穴がありしたので、それを埋める実験をおこない、クラススイッチの欠失モデルとして1978年に発表しました。さらに、これを証明するために、NIHにもう一度行って、クローニングの技術を習い、1978年に初めてγ鎖の遺伝子のクローニングに成功しました。  そうしているうちに、1979年、大阪大学の医学部遺伝学教室に移ることになりました。 阪大では非常にプロダクティブに研究が進みました。クラススイッチの欠失モデルに記載した遺伝子の配列と構造の解明を、1982年にクローニングによって完全に証明することができました。そのようなときに、早石先生の後任に来いというお声がかかりまして、1984年の春に京都大学に帰ってきました。

混沌からの脱出

 ここで、再び何をやるべきかということが大きな問題になりました。というのは、東大時代に私が提案したモデルは、大阪大学の5年間でほぼ証明されていたわけです。次に何が知りたいのかを自問自答すると、やはりクラススイッチの組換え酵素を同定し、クラススイッチ制御機構を明らかにしたいと思いました。しかし、その問題にはなかなか手が届きませんでした。結局、1984年から1986年にかけて、IL-2レセプターのα鎖と、クラススイッチの制御因子のIL-4とIL-5を次々に単離しました。さらに、組換え酵素を同定しようとして、RBP-Jを、またリンパ球の制御の研究からPD-1やSDF-1などの今日でも重要な遺伝子をたくさん単離しました。IL-4とIL-5は、クラススイッチやリンパ球の分化制御にとって極めて重要な遺伝子でありますので、何も役立たなかったわけではないのですが、何か靴の底から足の裏を掻いているような感じはぬぐい切れませんでした。何が欠落しているかということは明白でありました。それは、組換え酵素を単離するには、クラススイッチを高頻度に誘導でき、生化学的分析が可能なBリンパ球細胞株が必要であるということです。そして、1991年からNIHで毎夏すごしている時に、ワレン・ストローバー博士からCH12というB細胞株を入手しました。この細胞の精製を繰り返すことによって、短時間で半分以上の細胞がIgAにスイッチするという系を得ることができました。  そして、この系にタンパク質合成阻害剤のサイクロヘキシミドを加えると、クラススイッチがまったくおこらなくなることがわかり、新たに誘導されるcDNAを単離するのがいいということになりました。そこで、subtraction cloningをおこない、いくつか遺伝子が取れまして、そのうちの一つにActivation-Induced Cytidine Deaminaseという名前をつけました。私はこれをAIDと呼んだのですが、これは私の佑(たすく)という名前だということは、しばらくじっと黙っておりました(笑)。  AIDは、APOBEC-1というRNA編集酵素と最もホモロジーが高いのですが、当時、その理由は全く見当がつきませんでした。しかし、germinal centerの活性化されたBリンパ球にしか発現されません。発現がきわめて限局していることから、何かしているに違いないと確信して、ノックアウトマウスを作成しました。そうしますと、ノックアウトマウスではクラススイッチと体細胞超突然変異が完全にブロックされていました。  一方、当時私の友人のアラン・フィッシャー博士が高IgM血症2型の患者さんを解析していて、その遺伝子座のマッピングをしていました。高IgM血症は、血中IgM値が非常に高いのですが、IgG、IgAがほとんどなく、重篤な感染症を繰り返します。その遺伝子座のマッピングができたということを聞き、我々はヒトAID遺伝子を単離し、患者の遺伝子に突然変異があるかどうかを調べてもらいました。そうすると、突然変異がありまして、マウスとヒトの症状が完全に一致しました。以上の結果から、AIDがクラススイッチと体細胞超突然変異という末梢B細胞における多様性獲得機構に必須の分子であることがわかったわけです。

AIDの新展開

 現在の問題は、AIDが、いかにDNAを切断するのかというものです。これに関して、今、世界には二つの考えがあります。一つは、我々が提唱しているものですが、AIDがRNA編集によってDNAを切断するというものです。すなわち、AIDが未知のmRNAのCをUに脱アミノ化して編集する。そして、編集されたRNAが翻訳されて、新たなDNAを切断する酵素、あるいはすでに存在する切断酵素を標的に運ぶタンパク質を作るのではないかというものです。  第2の考えは、大部分の人が考えていることですが,AIDがcytidine deaminase活性によってDNAのCをUに変換し、生じたUとGのミスマッチを通常のBase Excision Repair酵素が認識してUを取り除き、さらにAPエンドヌクレアーゼによって切断されるというものです。この考えの都合のいいことは、もしミスマッチの状態で複製すると、かわりに突然変異が入るということです。  以上の二つのモデルの違いは、前者に翻訳が不可欠だということです。実際、我々は、翻訳をブロックするとクラススイッチも体細胞超突然変異も起こらないことを示しています。一方、後者のモデルではUNGという酵素が必要ですが、我々は、UNGの酵素活性がなくてもDNAの切断は起こることを証明しています。もう一つの大きな問題は、AIDがどのようにしてDNA組換えと体細胞超突然変異という2つの異なるDNAの変化を制御するかというものです。これについは、多くの変異体の解析から、C末に変異があると体細胞突然変異は起こるが、クラススイッチが起こらなくなり、逆にN末に変異があると体細胞突然変異はいかなくなるが、クラススイッチはおこることがわかっています。つまり、それぞれ違うコファクターがN末とC末に結合するのではないかということです。  まとめてみますと、抗体の多様化というのは二つの段階があります。まず、骨髄において、RAG1/2組換え酵素による部位特異的なVDJ組み換えにより、V領域の多様化が起こります。次にBリンパ球が末梢で抗原に出会い活性化されると、AIDが誘導され、その結果、クラススイッチ組換えと体細胞超突然変異という異なる多様化を引き起こすのです。  ところが、AIDはDNAに傷を入れる酵素ですから、この発現制御を間違えますと、腫瘍が発生します。つまり、ゲノムは、初めから決められたソリッドな設計図ではなくて、柔軟なシナリオのようなものであり、役者が適当にアドリブを入れて初めて、生き生きとした芝居になるわけです。ところが、アドリブもやりすぎますと、芝居をめちゃくちゃにしてしまうので、アドリブを入れる役者をきちんとコントロールする監督が必要というわけです。つまり、「ゲノムの壁」を乗り越える一つの戦略として遺伝子の再構成がありますが、さらにRNA編集が重層的に加わってゲノムの多様性を大きくしているのではないかと考えています。

おわりに

 最後に、若いかたに少し教訓めいたことを述べます。まず、私は分子生物学から出発して、免疫学に入ってきたわけですが、それはそれなりの理由があります。まず、目標は難しければ難しいほど魅力があるわけですが、免疫系はその複雑さにおいて神経系と匹敵します。また、免疫系は得られている情報量において、他の分野を圧倒しており、ほとんどの新しい分子生物学的な概念が免疫系を使って打ち立てられてきていることも、大きな優位点です。したがって、これからもなお分子生物学的解析で、解明される領域が大きいだろうと考えられます。さらに、免疫学は、病気の診断と治療に直結する発見につながる可能性が大きいといえます。  私が常に望んできたことは、だれもが見向きをしないような石ころを拾い上げて、ダイアモンドであるというふうに仕上げていく。つまり、価値がはっきりしているものに後から手を出しても、それ以上価値が上がることはないのですが、まだどうなるか分からない混沌とした状態の中から立ち上げていくところに、いちばん大きな魅力を感じます。そのためには、次にあげる六つのCが大切です。  まず、自分の好奇心curiosityが大切にされなければいけない。次に、それに対して挑戦challengeする勇気courageを持っていただきたい。そして最も必要なことは、これを続けるために十分な自信confidenceです。さらに、集中concentrationして、継続continuationしていく。こういうことはなかなか大変ですが、やっていけば必ず道は開けるものです。  さて、今後は京都大学医学研究科の免疫ゲノム医学の特任教授として、引き続きAIDとPD-1の研究を続けていくことになります。また、日本学術振興会のシステム研究センター所長として、科研費制度とポスドク・フェロー制度の改革を進める役目をしていきたいと思っています。