「独創的研究への近道:オンリーワンをめざせ」
本庶 佑およそ、真の意味での研究者を志す人で独創的な研究をしたいと思わない人はいないであろう。世の中に五万とある雑誌に毎週毎月掲載される論文の中に独創的な研究がどのくらいあるかは読者が一番良くご存じである。有体に言うならば大部分の論文は、私自身のものも含めて当然予測されることを確認したり、だいたいわかっていることの穴埋めをしたりという枝葉末節的なものである。その中からできるならば時代を変革するような、これまでの考えを根底から覆すような研究をしたいと考えるのが研究者の最大の楽しみであろう。しかしながら、何が独創的な研究かという捉え方は多くの人によって少なからず差があるということは免疫学会ニュースレターホームページ上での独創的研究に関する様々な意見の交流から私が痛切に感じたことである。免疫学会ホームページには昨年9月から12月まで次に示すような多くの先生方から貴重な意見が寄せられ、公開された。吉村昭彦、平野俊夫、高浜洋介、瀧伸介、小安重夫、山岸秀夫、黒崎知博、市原明、石坂公成、北村大介、深田俊幸、淀井淳司(敬称略、掲載順)。ここでは独創的研究そのものに留まらず、我が国における研究の在り方まで、巾広い意見が自由に交換されたのはまことに意義のあることであった。しかし、本稿はこのような意見を参考にしたものではなく、あくまでも私の独断と偏見によるものであり、他の先生方の意見については、日本免疫学会ニュースレターに近く掲載される予定と聞いている。
さて、本稿のような雑文が一戸編集長の要請で「実験医学」のような真面目な雑誌に登場する背景を考えてみたところ、ひとつの理由として昨今、大学院学生の定員がほぼ倍増される勢いで増えており、それだけ「研究者を志向する」若者が急速に増えたことがあるように思われる。その結果として、若い人の間で研究者を職業としてやっていくための競争が非常に厳しく意識され、「いかにして研究者として定職を得るか」、そのために「いかにして人に注目されるか」ということが真剣に考えられるようになったのではないかと考えられる。書店の書棚やダイレクトメールにしばしば「良い論文を書く方法」、「研究を楽しむ方法」などとともに「研究者として成功する方法」といった書籍が目立つようになったのは、このような傾向を反映していると思われる。もちろん、昔から良い研究をする秘訣は何か、どのような考え方で良い研究ができるか、というノウハウものはあったが、今ほどやかましくはなかったように思われる。最近のノウハウものに関連して言うならば、ひとつ抜けているのは「良い研究者を育てる方法」という本であるかと思うが、これは自分が良い研究をすることよりはるかに難しいことであり、過去20数年にわたり私の頭を悩ませたのはこのことである。様々なDNA を持った人に対して一般的な良い研究者を育てる方法というものがあれば、是非とも教えてもらいたいものと常々思っている。
このような背景からであろうと思われるが、最近研究者という職業を、生活の糧を得るひとつの手段として捉える集団が増えているということを実感させられることが度々あった。そのこと自身、一概に困ったことだというわけではないが、しかし研究者というものを何故志すかという観点に戻って考えるならば、職を得ることだけに意識が集中すると問題が生じるのではないかと考える。生活の手段として研究を考えるのであるならば、もっと他に楽に生きていける職業があるのではないかと私は思うのである。研究者の生活というのは、世間的基準では基本的に楽ではなく、また研究の中に楽しみを見い出せない人には、つらいとんでもない生活であることをまず認識する必要がある。このような考え方の差にこそ今日の大学が抱えている大きな問題があるのかもしれない。このような理想と現実の解離は、実は何もつい最近始まったことではなく、1919年にマックス・ウエーバーが「職業としての学問」という講演をして、すでに今日的状況を分析している。もし、研究者として成功するという意味が職業として成り立ち、安定した収入を得て、快適に暮らすという観点で物事を考えるならばこれから私が述べることはおそらくあまり役に立たないであろう。研究者として成功することが、大学教授になることであると、もし考えている人があるとするならば、ここにも大きな誤解がある。大学教授は文字どおり、学生に教えることによって生活の糧を得ている職業であり、すべての大学教授が研究者として格闘しているわけではない。プロとして自分の研究で生きていくという人は大学教授の中の10%程度であるかもしれない。「プロフェッサー」と語源を同じくする「プロフェッショナル」ゴルファー(日本人男子で3,521人)の中で、テレビ放映されるトーナメントに登場する人は、非常に限られた人である(144人)。大多数のプロゴルファーは、なんらかの形でアマチュアを教えたり、あるいはゴルフの普及、宣伝など、関連産業に従事しているケースが多い。トーナメントプロとして生活をかけた戦いは、テレビで見る以上に極めて厳しいものである。まず、この試合に出場権を保証されるのは、年間60人足らずである。それ以外の人は、月曜日からの予備選を勝ち抜き、そして最後の4日間(木、金、土、日)のトーナメントへの出場権を得る。4日間のうちの最初の2日間の予選ラウンドで成績の悪かった人は、最後の2日間の決勝トーナメントに参加することは出来ない。優勝すればいきなり何千万という賞金を得ることが出来るが、シーズン中、ほぼ毎週行われるトーナメントの中で、優勝を経験することができる人は、極めて一握りの人である。また、日本のトーナメントで度々優勝する人が世界では一度も勝てないのも事実である。プロゴルファーと呼ばれる人の大部分は、プロフェッサーと同じように、教えることで生活をたてている。しかし、教えることもなかなか難しい。ティーチングプロとして認められ、トーナメントプロのコーチになるような優れたティーチングプロになるのも競争が激しい。町の打ちっぱなしでボールをひっぱたいているお父さんやお母さんの手や足をとり、いくら教えてもうまくならない人に教えるのはむだだと心中思いながらぐっと我慢して教えるティーチングプロの仕事は、単位さえもらえば喜ぶ学生相手のプロフェッサーと比べれば、これまた苦労の多いものであろうと推察する。少し話がそれたが、「研究を職業として生きていく」ということをトーナメントプロとして生きていくのと同じような狭い意味にしぼって本稿を書いているということを、お分かりいただきたいと思ったからに他ならない。
研究者を志す若い人に「何を研究したいのか。」という質問をすると、一昔前は癌を研究したいと言い、昨今は脳を研究したいというのが流行である。古くから研究においては、どのような質問をするのかによって問題は半分は解決されたと言われている。癌だとか、脳だとかいうレベルでは研究の対象としての設問にならないことは明らかである。したがって実際に研究を自分の一生の仕事として取り上げるためにはもっと緻密かつ具体的な設問として立ち上げなければならない。研究をする上では実はここが最も難しいところである。「自分はいったい何が知りたいのか。」と常に自問自答してきたのが私のこれまでの一貫した研究者人生であったとも言える。ところが、考えてみるとこれは一見矛盾しているように見える。研究とは自分の好奇心を大切にしてそれに向かってまっしぐらに突き進めば必ず重大な疑問にぶちあたるはずであると多くの人は考えるからである。しかし、一見不思議に思えたこともよくその分野のことを調べてみるとすでに多くの人が研究をしてかなりのことがわかっているという場合がほとんどである。また自分のささやかな好奇心に基づいた疑問がはたしてどれほどの研究の価値があるのか、あるいは重要性があるのか自信が持てなくなることもしばしばである。このような場合にてっとり早いのは、世の中の多くの人が注目して、大勢の人が研究をしているいわゆる流行のテーマに参加することである。世の中にはすべて流行があり、隣の人が気にならない人は少ない。したがって、流行の中に身を置くことは、ファッションに限らずすべてにおいて安心感を与えるのであり、またもっとも無難な生き方であると多くの人が本能的に感じている。一方、自信が十分にある人も流行を追うことになる。何故なら多くの人が求めている激しい競争の中で自分は勝ち抜き、必ずやナンバーワンになれると確信しているからであり、またナンバーワンになることこそ自分の生きがいであると感じる自信家は研究者の中にも少なくない。かくして、研究者の社会においても流行があり、また流行をめがけて人が集まり、その分野の研究は著しく進むことになる。流行を追う研究が独創的な研究と無縁のものであるかどうか、これには議論があるところである。
そもそも独創的な研究とはどのようなものか、これについては古来いろんな論議があるが、単純に言うならば独自の考えで始めることであり、一般的には流行に乗ることではない。しかし、独自の考えといえども全く何もない白紙の上に絵を書くような研究というのは、今日きわめて稀である。過去に独創的研究と言われるものも、そのほとんどは以前の学問の発展の上にひと皮加えた程度と考えても間違いはない。たとえば、今日生命科学の発展に大きな影響を与え、生物学に革命的な変革をもたらしたノックアウト技術の発展について考えてみるとさらに問題点は明らかである。M. カペッキーがES細胞に相同組換えを導入し、最初にノックアウトマウス作製に成功したことは周知の事実である。しかし、この技術の発展には、その以前にテラトカルチノーマ細胞系を確立したL. スチーブンスや、それをマウス胚に導入して個体発生ができることを証明したR. ブリンスターらの原理的な発見が必須であった。また、M. エバンスらよるES細胞株の樹立といった基礎的な成果も不可欠であった。M. カペッキーの貢献は、哺乳類動物細胞において相同組換えが可能であるということを立証し、これらの3つを統合して今日広く使われている画期的な技術に集大成したものである。したがって、M. カペッキーが成した仕事は過去の人々の成果の上に立った大きな発展であり、また、相同組換えを検出するためのちょっとした工夫が彼を成功に導いた。独創的な考えなどというものは、だれの頭にもあってそれほど飛躍的な発展ではないという見方もある。しかし、研究のアイディアを単に思いつくこととその未知の可能性にかけて研究することには非常に大きな違いがある。これは例えて言うなら、あのベンチャー企業の株が上がると思ったと後から言う者と、実際にその可能性にかけて借金をしてまでその株を買った者との違いである。もし、本当に自分がその可能性が高いと信じ、それを実証したいと思うなら、その時点であらゆる努力を集中してその問題にとりかかるのである。つまり、独創的と言われているものは無から有を生じるように出てくるものではない。しかし、そのような考えが先人の実績の中からおぼろげながら浮かび上がったとしてもそれがだれにとっても自明のものであるなら、おそらくそこには独創的な飛躍はなく、簡単に実証可能なものである。多くの人がそのような可能性はあったとしても非常に少ないと考え、いわゆる流行にならなかった可能性にかけて、そしてそれが実証された時に多くの場合に飛躍的な展開が起こるのである。
しかし、そのような難しいことだけが独創性とは限らない。凡人が独創性を生み出すことはそんなに難しいことではなく、ナンバーワンになることをを求めず、オンリーワンになることを考えることが最も近道である。極端な話、生物学の研究は、これまで誰も研究したことのない生物種を選び、それを詳しく解析することによっても十分に独創性が発揮される。しかし、それにかけるだけの勇気と熱意があるかどうかである。このような例は最初にバクテリオファージの研究を始めたM. デルブリュック、線虫研究をシステムとして立ち上げて今日の繁栄に導いたS. ブレンナーらの例がある。しかし、この場合もどんな種でも良いというものでもない。そもそも研究とは、好奇心からスタートするものである。“なんだろう?”“不思議だな?”という自らの問を心行くまで追求することが、研究者の楽しみではなかろうか。先日もふとテレビを観ていたら、満月の夜に珊瑚が一斉に産卵を開始する映像を観て、なんと生物は不思議だという気持ちが心底沸き起こるではないか。このような現象を心行くまで研究することが、まさに研究者の特権であり、また、一生をかける意味のあることではなかろうか。「流行を追う」ということは、自らの中に何かを知りたいという好奇心が希薄であるからではないのであろうか。「流行を追う」ことがその人にとって本当に楽しいのであろうか。研究を楽しまずにして、一生やることは業務でしかなくなり、果たしてそこに創造性豊かな研究が開かれるのであろうか。
研究者の醍醐味とは、私にとっては誰も見向きもしない岩からのわき水を見つけ、やがてその水を次第に太くし、小川からやがて大河にまで育てることである。また、山奥に道なき道を分け入り、初めて丸木橋を架けることが私にとっての喜びであり、丸木橋を鉄筋コンクリートの橋にすることではない。多くの人がそこに群がってくる時は、丸木橋ではなく、既に鉄筋コンクリートの橋になっており、その向こうにある金鉱石の残りをめがけて多くの人が群がっているのである。その結果得られたものが、高価であるからといって、本当にそれが独創的な研究であろうか。独創的な研究は、おそらくその研究が20年経ってもまだ引用されているかどうかによって決まる。今日Cell, Nature, Scienceを賑わしている論文を1年後にどれだけ我々が覚えているであろうか。ましてや20年後においてをや。私にとってのもうひとつの喜びは、多くの人が石ころだと思って見向きもしなかったものを拾い上げ、10年、20年かけてそれを磨きあげて、それがダイヤモンドであることを実証することである。そのような研究こそ本当に独創的で研究者冥利につきるというものではなかろうか。石ころが石ころのままで終わるのか、ダイヤモンドに化けるのかは運の問題もある。但し、そこに研究者の嗅覚が非常に重要な要素を占めることも否めない。私は教室の若い人に優れた研究者になるための6つの「C」を説いている。すなわち、好奇心 (curiosity) を大切にして、勇気(courage)を持って困難な問題に挑戦すること(challenge)。必ずできるという確信(confidence)を持って、全精力を集中(concentration)し、そして諦めずに継続すること(continuation)。その中でも最も重要なのは、好きなことに挑戦し続けること(curiosity, challenge, continuation )の3「C」である。これが凡人でも優れた独創的と言われる研究を仕上げるための要素であると私は考える。